愛と光の人生を歩む
本来の自分を取り戻し、愛と光で生きる
本来の自分を取り戻し、愛と光で生きる
現在この世界は2分化されています。善と悪、光と闇と俗に言われる状況が存在しており、これは今まで地球の人類が本来の魂に基づく営みから、唯物論に代表される物質社会の支配に翻弄された結果です。人類は力と財力のある者(一般にエリートと呼ばれている人達)が権力と支配を思うがままにして来た歴史があります。現在社会では、その支配構造が常態化して、本来人々を助けるべき政治、マスコミ、宗教、文化や芸術に至るまで悉く物質社会の支配構造に飲み込まれて完全に機能不全に陥っています。但し、実際にはそれに気付いている人はどれ程存在しているのしょうか。グローバリストと呼ばれる存在が世界支配を企んで来ました。長年陰謀論として語られることはあっても、殆ど実態が分からなかった存在が、今は闇側の存在としてネット上語られ始めています。正に覚醒が起こっていると言っても良い状況だと思われます。ここで、とても興味深い考察があります。ユダヤ教の経典であるトラ・旧約聖書では神(ハシェム)がこの地球を創造し、アダムとイブを創造したとあります。でもこの神は自分でも言っていますが、妬んだり怒ったりするとあります。私は子供の頃、羊を殺したり、戦争するのに家畜も含めて皆殺しを推奨したり、戒律を守らないと者は殺す、しかも嫉妬する、愛も神性全く感じられない事に疑問を持っていました。これは私だけでしょうか。その後、アインシュタインがユダヤ教の神は神ではないと否定したのを知って、今までの私の疑問が晴れました。しかも、エデンでは、アダムとイブが知識の木の実を食べた時に、神が二人をエデンから追放しました。これも単純に考えても疑問が湧きます。どうして神の場所エデンでは知識が悪(罪)となるのでしょうか。新約聖書でも教えられていますが、「人は羊の様になれ」と。羊はボーとしている動物で群れをなし、羊飼いが導かなければ、方向も失ってしまいます。我々に羊の様になれと言っているのは正に「愚かで従順」になれという屈辱的な支配思想そのものです。人間の自由意志の尊厳を愚弄する考え方は、グローバリストの支配思想そのものです。腹立たしくも思いますが、皆さんは如何でしょうか。
更に新約聖書では、神を愛し隣人を愛せと書かれてありますが、これも全くの虚偽だと思われます。どこの誰が自分ではなく、目にも見えず実態がなく、洗脳されて思い込む以外には認知する方法のない神を誰が本気で愛せるでしょうか。そう言うと宗教指導者達は、「見える物ではなく見えない物を信じろ」とか「信じる者は救われる」とか訳の分からない事を言って、自分自身ですら出来ない事を強要して来るのです。これもとても腹立たしく思います。人は自分を大切に思い、先ずは自分を愛する事が出来て初めて他の隣人を愛せるのであって、自分を愛する以前に他を愛そうとすれば、それは自己犠牲・つまり偽りの愛でしかないのではないのでしようか。偽善者的な考えはこうして生まれてくるのです。この自己犠牲こそが、人を自己嫌悪に陥らせて人生の生きる意味を奪う、究極の元凶です。
一つここで申し上げたい人が陥りやすい思考上の問題は、自分自身を軸に物事を考えるのではなく、他人とか他力と呼ばれる外の世界へ回答を得ようとする事です。例えば困った時の神頼み。祈ったり、慰めを他人に求める。自分の心のささやきでは無く、全て外向きに何かを探そうと依存する姿勢こそが、人間の最大の欠陥であり、これこそがグローバリストが狙っている人間の理想であり、彼らに従属する落とし穴にほかなりません。
我々は、唯物論的に外から見えるもや触れる物事ではなく、自分の内なる魂の声に耳を傾ける必要があります。
実は人間が生きる物になる為には魂が必要です。今、科学が進み人間の肉体としての個体は製造出来ても、命すなわち魂は製造出来ません。
この魂こそが、息として吹き込まれた宇宙の源からの贈り物なのです。
宇宙の源は宇宙生命全ての根源であり、全宇宙の創造の源でありますが、宗教に言われているような、単独の独裁者の様な存在では全くありません。良く宗教指導者達が、天国は唯一の神が存在する独裁国家ではあるが、神は愛があるので、地上に存在している独裁国家とは違うとか寝ぼけて様な解説をして納得されようと試みますが、全く違います。ここで、はっきり言いますが、
唯一の神は存在しません。宇宙の源は存在そのものであり、具象化され得る存在ではありません。
ですから、何か具象化された物をかざして神だと言って洗脳しようとするものは全て偽りであり、惑わしに他ならないのです。
先ずは宇宙の源からの贈り物、自分の魂の声を聴いてみましょう。
愛について語った内容で最も良く表現しているのは、新約聖書時代に布教活動をしたポーロの書いたコリント人への手紙があります。以下参照:
コリント人へ手紙13章4節から7節には;「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失わせず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と書かれています。ここで気が付かれた方もおられると思いますが、前章で説明した旧約聖書(トラ)で説明されている神はこの内容に反しているのでは。そうです、この愛の定義に逆行しているのです。ですから、私には愛の無い神とはと何と、素朴な疑問が出て来てしまったのです アインシュタインはユダヤ教の神を否定しましたが、人生の指針としての仏教を学ぶことを推奨しました。何故でしょうか。仏教と言えばお釈迦さんがこの世の人間の宿命であった輪廻転生に抗い、悟りを開いてそれを克服した唯一の人間であったと伝承されています。その悟りについて日本では親鸞上人が浄土真宗の「正信偈」の中で語っておられます。阿弥陀仏の本願に依って信心決定する事によって救われると言っています。ただこれも私が第1章で申し上げた様に、他力本願の思想であり、残念ながら宗教の域を超えていません。仏教の思想の中で取り上げたい内容は「因果応報」です。因果応報の考えかたから、先ほど挙げた愛の内容と相反する行為を実行したとすれば、必然的に悪い事が起こるのではと考えるのは私だけでしょうか。皆さんももうお分かりの様に、悪とは愛の正反対の思想行動に他ならないのです。という事は、さらに言えば、愛に対抗して創造された不幸を創造する思想そのものであるという事になるのではありませんか。我々がこの愛と真逆な発想をする時、闇がその正体を現すのです。
それでは光とは何を表しているのでしょうか。勿論、光は科学的にもエネルギーを表しています。宇宙の源から発せられた光と愛のエネルギーこそがこの全てなのです。そこには人間の魂に必要な全ての根元が存在し、知識、肉体の活性化、宇宙全ての生命体と繋がる事が出来るのです。実は私達は動物、植物を始め全ての生き物と繋がっています。例えばウイルスや細菌で我々に今は有害とされている物でも、彼らに繋がれば、仲間になる事が出来ます。この世の基本は日本人が持っている根本的な考え「和」だからです。特に日本人はこの「和」を全人類に広める使命があると思います。何故ならば。他の国にはこの考え方が存在していないからです。どう思われるでしょうか。
最近量子物理学で量子縺れが証明され話題となりましたが、正にこれこそ我々が距離に関係なく、瞬時に誰とでも繋がる事の出来る証なのです。更に、メドベットが話題になり始めましたが、これも人間の細胞単位で愛と光の力の中で波動を使って治癒をする、我々が本来持っている技術です。アバターの映画のシーンでも彼らが大樹からと繋がり心と体を癒していますが、我々も同じ様な事が可能なのです。今まで闇の惑わしで目を晦まされていただけなのです。皆さん、目を覚まして、愛と光が自身の魂に溢れている事を感じ、その声に耳を傾けましょう。私が説明する以上のあなた方自身の全ての必要が其処に存在している事に気付かれるでしょう。
自分の外ではなく、内なる愛と光りと語り、声を聴いて人生を歩みましょう。これが本来の私たちの姿なのですから。
我々が肉体という衣を着て生きる様になった意味は、肉体という物質を纏う事で、肢体の味を体験し、魂だけで生きることとの違いを体験する為に他なりません。ですから、極端な唯物論主義の闇から利用されてしまったのです。彼らは怒り、妬み、悲しみや憎しみ、不安といった全ての負のエネルギーを彼らのエネルギー源として食べているので、人類が彼らの為にエネルギーを供給できる社会を作り上げて利用して来ました。いわば、人類を彼らの家畜として飼って来たのです。しかし、我々が彼らの悪行を見破り唯物思考から離れる時、更には魂に現存している愛と光りに帰属する事に依って、その束縛から完全に自由になるのです。従って愛と光りで生きる事を選び、本来の自分自身に帰依した人々は、この世の愛と光りに基ずくポジティブな世界を創造してその中で生きる事が出来るのです。闇は愛と光りの源に勝利した事はありませんし、今は完全に排除されました。
人は内住する愛と光りと共に自由に、全宇宙と繋がり幸せに生きる為に生まれて来たのです。
全ての必要は意識して望む前から実現するので、ただ全てを喜び感謝して、自分がしたい事を自由に考えて自分自身を実行する事です。源からの愛は無条件の愛であり、生まれたばかりの子供の様に純粋に心の赴くまま自由に生きるだけ。周囲を気にして遠慮したり、心配する事は全くありません。自分が生きたいと欲する人生をありのままに生きる事だけです。
愛と光りは宇宙全体の調和と共生です。勿論、今まで経験してきた社会とは真逆です。我々が光と愛で生きる時、闇の力は無力になります。宇宙の全てが私たちの側に立っています。彼ら全てと繋がり喜びと感謝に満ちた至福の人生を謳歌しようではありませんか!!!
追記として、多くの人々は死をとても恐れていますが、実は本当の死は個人の魂の衣である肉体だけに起こるものであり、魂は永遠に生きています。「千の風になって」の歌がヒットしましたが、正にその通り、「私のお墓の前で泣かないで下さい、そのに私はいません、眠ってなんかいません」です。本人の意識は魂と共に存在しているのですが、肉体とは全く関係なく離れて生きています。臨死体験者が語る状況がここにあります。更に、この地球で肉体が製造された時、闇側に依ってDNAは故意に不完全な状態で使われた為に今の人体は欠陥品であり、この理由から肉体は有限です。この事実から不死の肉体を持つ為には新しい肉体に着替える必要があります。その為、多くの人々が一旦は死を経験する事にはなるでしょうが、今までとは異なりとても簡単に、古い衣を脱ぎ捨て新しい衣を着るといった状況が生まれる事になるでしょう。
又、死はあらかじめ定められた時に起こる現象で、偶然に起こる物ではありません。何故ならば、宇宙には偶然という状況は存在しません。宇宙では全て必然として起こるのです。この宇宙の真実を理解する事は物事を正しく理解する上で最も重要です。従って、進化論の様に偶然に偶然が重なる連鎖が長い年月を経過する事によって起こったという理論は宇宙の根本原則に反しており、闇側の虚偽であると断言できるのです。
魂は宇宙の源から誕生した全ての生きる物の源であり、物理的は個体から自然発生はしません。
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